彼女の福音
参 ― ウィスキーとヒトデとパンツァーカンフワーゲン ―
「で、こんなものを?」
「ああ。辞退はしたんだぞ?でもどうしてもって」
朋也が苦笑した。手にはウィスキーのボトルが一本。瓶を揺するたびに琥珀色の液体がぴちゃぴちゃと音を立てる。先日泊めた件で、杏から朋也への感謝の気持ちだった。
「こんなの、俺飲んだことないぞ」
「朋也は日本酒派だからな。それにもともとあまり飲まないし」
実のところ、朋也には趣味らしい趣味はなさそうだった。酒は弱いわけではないが、素面のまま私の顔を見ていたいという理由であまり飲まないし、博打をやる金があったら私に何かプレゼントしたいと言ってパチスロにもいかないし、買うに至っては俺にはお前がいるじゃないか、と言ってくれる始末。い、いや惚気ているわけじゃないぞ?もちろん朋也が最高の夫であることには変わりないのだが。
しかしそれはプレゼントの品をどうしようかという点では厄介な問題だ。趣味がないということは、「これ関係の物なら喜んで受け取ってくれるよね」という安全策がない、ともとれる。そう、そういう相手に喜ばれるものが何かを知るには、ずっとそばにいて同じ時を共有しなければならない。妻とは、そうでなければならない、うん。
「でも飲まないと杏に悪いしな」
そう言いつつ細長いジュースのグラスになみなみとウィスキーを注ぐ朋也。
「その、私も飲んだことはないんだが、そういう蒸留酒は少ない量をちびりちびり飲むものじゃないのか?」
「そうだっけ?でもついじゃったしな……なあ智代、これ半分こしないか?」
それは間接キスのお誘いと取ってよろしいかな、岡崎朋也殿?
「しかし……つーんとくるな、この匂い……炭のような感じがする」
くいっと呷る朋也。次の瞬間、ぶはっ、と吹き出した。あ、汚い。
「ななな何だこれ!」
「どうした?悪くなっていたのか?」
「そんな感じじゃないぞ……何つーか、それこそ焼けた炭を口に突っ込まれた感じだ」
どれどれ、と少し口に含んでみた。確かに独特の味だ。
「……面白い味だな」
「そうか?焼酎の親玉みたいなものかとタカをくくっていたんだが」
「一気に呷るからだぞ。少しずつ飲んでみると、楽しめる」
「のか?」
「と思う」
数時間後。
「とぉおもぉおやぁ……」
私は出来上がっていた。
「ん〜、なんら、ともよら」
「なんだとはなんだぁ、おまえのじまぁあんの奥さんだぞぉ」
「ともよ、結婚してくれ」
「だめだ、わたしにはともやがいるんだ」
今思い返すだけでも恥ずかしい会話をしていた。
「なんだか今日はともやがとぉっても男前に見えるぞ。でも、いつもかっこいいぞ」
「ともよがふたり。ともよがさんにん。おれのじんせいばらいろら」
二人だけでよかったと思う。もしそこで誰かが聞いていたら、絶対に生涯アホの子の烙印を免れないと思う。
後日談だが、どうも鷹文にしっかり見られていたらしい。どうやってかは知らないが、とりあえず絶縁してやった。鷹文?誰だそれは?知らない家の子だな。
「で、喜んでくれてた?」
「……ああ。ありがとう杏。忘れたくても忘れられない思い出になった」
買い物に出かけている時にばったりと私は杏と出会った。夕飯の食材を買った後(今夜のハンバーグに足りない玉ねぎとジャガイモだった)、私は彼女の洋服買いにつき合った。
「どういたしまして……ねぇ」
「ん?」
「変なこと聞くかもしれないけどさ」
「何だ急に」
「あたし、シリコン入れるべきかな」
今日卵を買う予定がなくてよかった。私は買い物かごを落としてしまったから。
「ななななな何を言い出すんだ急にっ!」
「おっきな声出さないでよ、しー」
「なんでそんな発想を思いつくんだ」
急に杏が悲しげに笑った。
「胸が小さいのって、男で言えば禿になるのとかメガネをかけるのと同じぐらい恋愛のハンデになるのよね」
「聞き捨てならないな。私もたまにメガネをかけるが、朋也はそれを(・∀・)イイ!と言ってくれるが……そもそも、胸の大きさで女性の魅力が決まるわけじゃないだろう」
「わからないわよね……ティーガーの主砲に準じるサイズを二つもぶら下げてる智代なんかにわかるもんですか」
「杏……」
「言いなさい!そのドッカーンなあっふーんに何が詰まっているのか」
「それは……」
私が困っていると
「風子、参っ上!」
どこからともなく芳野さんの義妹、伊吹風子が現れた。
「智代さん、藤林さん、お困りのようですねっ!ここは風子にお任せ下さい」
「いや、別に……」
「女性の夢の権現たる乳房。中に詰まっているもの、それはずばり!」
びしっと決めた。
「ヒトデですっ!」
「あら?」
芳野公子は本を読む手を一瞬止め、春の陽ざしを眩しそうに眺めた。
「気のせいかしら……ふぅちゃんがまた爆弾発言をした気が……」
「……」
「……」
い、今何て言ったんだ、風子ちゃん?
「はっはっは、風子何言ってるの?女の乳房には乳腺と……」
「藤林さんはヒトデを信じていないから、胸がないとか言われるんですっ!ヒトデを信じればみんな……はぁあああああ」
気のせいだろうか、風子ちゃんの周りに光る星、いやヒトデか、とにかくそれが現れ始めた。
「余計なお世話よっ!大体、ヒトデの魅力を信じるだけで胸がどうなるですって?新興宗教もびっくりな発言だわ」
「藤林さん、任せて下さいっ!風子にとっておきのアイテムがありますっ!」
「いやいいから」
「このヒトデ型ブラをつければ、一ヶ月で胸が」
「胸が?」
「ドッカーンですっ!一ノ瀬博士が開発した、お墨付きですっ!」
一ノ瀬はアメリカで何の研究をしているんだろう。ふと非常に気になった。
「……いいわね」
「は?」
「いいわねそれ。いくら?」
「藤林さんにはただであげますっ!ヒトデの似合う美女にはぴったりですっ」
「あらありがとう」
杏……哀れな子。
「大事にしてあげて下さい。何しろヒトデ型なのでとっても……はぁぁああああああ」
またトリップを始めた。
「風子……風子ったら」
「はっ!すみません。このブラはかわいすぎるので、やっぱりあげるわけにはいきません。これで失礼します」
そう言うが早いか、風子ちゃんはそそくさと消えていった。
何がしたかったんだろうか……そもそも、ブラをいつも携帯しているというのは、女の子らしいんだろうか?私はヒトデが似合う美女なんだろうか?あとで朋也に聞いてみよう。
「あーあ。残念だったわね。あら、智代?」
「悪いな、杏。今用事を思い出してしまった」
「え?あ、ちょっと!」
「買い物ならいずれまたつき合おう」
そう、私にはもう一つ確認しなきゃいけないことがあった。
果たして、私の胸の中にはヒトデがいっぱいなのだろうか。
そんな私の胸が好きだと言ってくれる朋也は、実はスケベなだけでなくてトンデモナイ変態なんだろうか。
「というわけだったんだ」
朋也の腕枕に甘えながら、私はその日の出来事を伝えた。
「智代、どうやら風子は保健体育の授業を片っ端からサボっていたようだ」
ちなみに帰った時に私は解剖学の本で調べてみた。ヒトデではなかったが、ほとんどが脂肪だったとは、少しショックだった。
「しかし杏もまた変なことを……」
「そうだ。女性の魅力が胸部だけに収束しているとは、全く人権無視もいいところだ」
「……まあ、世の中全員お前みたいに美麗豊満ビューティーというわけじゃないからな」
「ば、馬鹿、照れるじゃないか」
「あ、顔を真っ赤にしてかわいいな、智代は」
頬を突かれながら、私は聞いてみた。
「じゃあ、杏の魅力とは一体何なんだろう」
「俺に聞くのか、そんなこと?」
「同性にはわからないものがあるんじゃないか?スケベな朋也のことだから、何かわかってるんじゃないだろうか」
「お前それ褒めてないのな」
うーん、と朋也がうなった。
「やっぱ活気かな」
「活気?」
「あいつといるとさ、みんな元気になるだろ?やる気が出るというか、何つーか。それで女の子女の子しているしな。あ、お前もちなみに女らしいからな、知ってると思うけど」
知っている。しかし私があくまでも努力して得たものを、杏は生まれつき備えていた。言うなれば女の子らしさの天才というところだろう。
「だから、智代とは違う意味でかわいい、かな。花で例えると、智代が桜なら、杏はひまわりって感じかな」
「……ほう」
「あと、女の子にありがちな陰湿さがないというか……ほら、辞書を投げたりするだろ?でも結局それだけでさ、その後も引きずったりしないし」
「……そうか。随分と詳しいんだな」
「……ま、まあ、俺には智代しかいないから、よくわからないけどな。あ、あはは」
そんなことを言ってももう遅い。
「……朋也、この国は好きか?」
「え?あ、ああ、好きと言えば好きだ」
「そうか。じゃあ朋也の弁当は明日からしばらく日の丸弁当だな」
「へ?」
「嬉しいだろう。国旗だぞ国旗」
「あ、あの?」
「もう寝る。おやすみ。馬鹿」
そう言って朋也に背を向けた。
「ちょっと待て、智代?おーい、智代さん?ともぴょん、朋也ですよ?」
無視してやった。
次の朝、私は早起きして朋也の弁当を作っていた。
真っ白のご飯の上に、梅干し一つ。よし、出来上がりだ。
ま、まあ、朋也も毎日大変だろうし、力仕事になるんだから、別容器にちょっとおかずも詰めてやらないわけでもない。朋也が好きな唐揚げも、特別入れてやろう。勘違いするんじゃないぞ?許したわけじゃないからな?朋也の馬鹿が倒れちゃったりしたら、芳野さんにも迷惑が及ぶからな?
そう、自分で話を振った癖に私は軽く嫉妬していた。でもまあ、ある意味安心していた。
朋也が昨日指摘した杏の魅力というのは、やはり私も認めていたことだった。これは高校時代に杏と朋也を巡ってしのぎを削った時にわかっていたことだった。あの頃の杏は私のライバルだったから、どこがどう強いのか、どこで私の方がだし抜けるかを必死になって探していた。だから逆に、友達としてすごく仲がいいんだと思う。お互い相手を知り尽くしているから、自分とよく似てるのが分かっているから、大事にできるんだと思う。
そう考えると、少し誇らしげに思える。朋也はそんなすごい女性よりも私を選んでくれたんだから。
しょうがないな、鳥の唐揚をもう一つ追加してやるか。